初心者データサイエンティストの備忘録

調べたことは全部ここに書いて自分の辞書を作る

【映画】「エヴァンゲリオン」と「人魚の眠る家」を見た感想

【本記事はネタバレを含みます】

今更ですが、「エヴァンゲリオン」シリーズと「人魚の眠る家」を最近見ました。狙ってこの2本の映画を連続して見たわけではありませんが、たまたま連続して見たことで、2本の映画間で共通するテーマを私は感じることができました。そのとき感じた気持ちを残しておこうと思い、ブログ記事を書くことにしました。

エヴァンゲリオン」シリーズ(特に新劇場版)と「人魚の眠る家」の共通点

これらの映画を見比べたときに感じた共通するテーマとは、下記の二点です。

  • 愛する人との再会を目指すが、再会という意味では最終的に失敗する
  • 技術でできることをやれば良いってものじゃない

愛する人との再会を目指すが、再会という意味では最終的に失敗する」ことについて

 「エヴァ」では、碇ゲンドウが亡くなった妻の綾波ユイと一体化しようとしますが、WILLE(正確にはシンジ?)によって阻止されています。
 「人魚の眠る家」では、水の事故で意識を失っている瑞穂が、ANCという技術によって身体を動かされ、肉体だけが生きている状態で生活をしています。瑞穂の家族である播磨家の人々は、瑞穂が目を覚ますことはないと頭ではわかりつつも、心中ではANCによって意識を取り戻すことを期待しています。しかし、最終的に家族は、瑞穂の延命措置を終了させることを選択し、永遠の別れが訪れます。
 いずれの映画も主人公やそれに近しい人物が、愛する人ともう一度会いたいと強く願い、その願いを実現させるために手を尽くしますが、最終的には実現できないという結末になっています。
 これについて、私はなんと切ない物語だろうと思いました。愛別離苦は人類にとっていまだ克服できない苦しみの一つであることを、これらの映画を見て強く実感しました。多くの人にとって、自分が死ぬことよりも家族が死ぬことの方に恐怖を感じる理由はこのあたりにあるのかもしれません。
 一方で、愛する人との再会に失敗した碇ゲンドウや播磨家の人々が、絶望しているかというと、そうではありません。100%ではないかもしれませんが、どこか納得した上で永遠の別れを選択します。 私自身は、家族に何かあったときに、これらの映画のように「どこかで納得する」ということができるかわかりません。しかし、愛する人との別れは必ず避けることができません。そのときに、「どこかで納得する」ということが生き続けるということに必要なのだと思いました。

「技術でできることをやれば良いってものじゃない」ことについて

 「エヴァ」においては、フォースインパクトを起こすことによって、碇ゲンドウ綾波ユイとの一体化を目指し、生命の間にある「壁」を取り払おうとします。また、「人魚の眠る家」においては、上述した通りANCによって、意識を失った人間の手足を動かすことができるようになります。
 しかし、それぞれの物語ではこれらの技術を使うことを阻止したり、違和感を持ったりする人が現れます。
 このような描写を見て、技術は人間の心と一緒に発展していくものではないという風に私は感じました。技術は人の心を無視して発展していくと言った方が正しいかもしれません。そういう意味では、よく「技術が人を滅ぼす」と言いますが、人間の肉体よりも精神の方が先に技術に滅ぼされるかもしれないなあと感じました。  

まとめ

監督も(恐らく)見る客層も異なる「エヴァ」と「人魚の眠る家」ですが、これらの映画からは共通するテーマを見出すことができました。それは上述した

  • 愛する人との再会を目指すが、再会という意味では最終的に失敗する
  • 技術でできることをやれば良いってものじゃない

ではあります。これらの映画を見て、人類にはいまだ克服できない難題や、克服することすら危険な難題がまだまだ多数存在するなという印象を持ちました。そういった課題を抱えた人類の一人として、私はこれからどう生きるべきなのかということを考えるきっかけになった映画になりました。