はじめに
私はこれまで学校や会社、家庭になじめない人生を送ってきました。周りの人にとって簡単にできることが、自分にとっては難しく感じるのです。
そういった経験の積み重ねや大学受験の失敗により、18歳のときに心の病を発症してしまいました。心の病とは厄介なもので、発症から10年以上経っていますが、完全に回復していません。サラリーマンになってからは休職や時短勤務も経験しました。
そんな中、哲学者の鷲田清一さんが書いた「<弱さ>のちから」という本の存在を知りました。自分は間違いなく「弱い」人間だと感じている私にとって、興味を惹かれるタイトルでした。本記事では、本書を読んだ私の感想を書こうと思います。
「<弱さ>のちから」とは
私は本書を読み、「<弱さ>のちから」とは「社会規範に縛られた人を開放するちから」という風に解釈しました。まずは、「<弱さ>のちから」を私がなぜこのように解釈したのかについて述べようと思います。
本書では、「からだにじぶんを委ねられなくなったことが、わたしたちのいちばん危ういところなのかもしれない」と問題提起しています。なぜ、からだにじぶんを委ねられなくなったかというと、人は他人や社会の影響を強く受ける生き物だからです。社会の多くの人が持つ論理に流されてしまって、じぶんのからだが悲鳴をあげても無視してしまう、現代はそんな状況であるという問題提起を鷲田さんはしています。
実際私も「勉強はできるべきだ」や「給料は高いほうが良い」という社会規範的な考え方に強固に支配されてきましたし、今も支配されています。しかし、この考え方のせいで身体が悲鳴をあげても、その悲鳴を無視し心の病になってしまいました。
この問題に対して、鷲田さんは以下のような解決策を提示しています。
じぶんが乱れうること、じぶんをほどくということが、ほんとうの自由だとしたら。そういう自由を他者の存在の<弱さ>が劈(ひら)いてくれる
ここでいう「じぶんが乱れうること」「じぶんをほどくということ」は、じぶんが固定観念のように持っている社会規範的な考え方を揺るがせること、という風に私は解釈しました。このように人を縛る社会規範を揺るがせる力を<弱さ>は持っている、なので「<弱さ>のちから」とは本書においては「社会規範に縛られた人を開放するちから」と解釈できるのではないかと私は考えました。
ここまでの議論は抽象的で分かりにくかったと思うので、もう少し具体的に「<弱さ>のちから」について述べようと思います。
私は大学生の頃、多様な子どもが集まる塾でアルバイトをしていました。その中には不登校になったり、発達障害を持っていたり、家庭が荒れていたりといった生きづらさを抱えている子どもが多くいました。誤解を恐れずに言えば、そのような子どもたちは社会的な<弱さ>を持っています。
私はそのような子どもに教員という立場で関与していましたが、私が持っている社会規範的な考え方は通用しませんでした。そのような環境で子どもたちに関わっていく中で、私の「勉強はできなければいけない」という考え方に若干の変化が生じました。子どもが持つ<弱さ>は「勉強ができなければいけない」という考え方に耐えることができず、それゆえ私が生きてきた生き方と異なる生き方を一緒に模索する必要に迫られたからです。
以上のように、自分が固定観念的に持っている社会規範と異なる文化を持つ人々と接することで、自分の固定観念が乱され、自由になる契機となる、ということを鷲田さんは言いたいのだと思います。このことを鷲田さんは下記のように述べています。
ケアにあたるひとがケアを必要としているひとに逆にときにより深くケアされ返すという反転が。より強いとされる者がより弱いとされる者に、かぎりなく弱いとおもわれざるをえない者に、深くケアされるということが、ケアの場面ではつねに起こるのである。
弱い立場は相対的
ここからは私の感想です。
<弱さ>というものは絶対的な概念ではなく、相対的な概念であると思います。したがって、どのような人でも他者との関係性において「弱い」立場にもなりうるし、「強い」立場にもなりうると思います。
例えば、私は会社では出世コースから完全に外れ、仕事ができない「弱い」奴だと思われています。しかし、前述した塾ではややもすれば優位な立場になってしまう教員として働いていました。このような環境ではどちらかと言えば「強い」立場になるのではないかと思います。
したがって、自分が社会規範に縛られていると感じ、そこから自由になりたいと思うのであれば、自分よりも「弱い」立場のいる人がいる環境を探し、その環境に行けば良いと思います。そのうえで、「弱い」立場にいる人を深く知り、ケアすることで、自分を縛る社会規範に乱れが生じ、そこから自由になる契機を掴めると私は考えます。
また、自分が「弱い」立場にいると感じる人は、自分と接する人の価値観を乱しに行けば良いのです。それによって社会規範の縛りから抜け出せることができ、助かる人もいると思います。「弱い」人はある種の啓蒙活動ができる人である、と開き直れば良いと思います。
「弱い」「強い」が生む分断
「強い」者が「弱い」者を差別するという構造は、日本のどこでも見られることだと思います。ネットでは低所得・独身・病気持ちの男性を差別的に表現する「弱者男性」という嫌な言葉もあります。
このように、人を「弱い」「強い」で分類し、同じ分類の人としか関係を持たないという考え方で生きていくと、社会が「弱い」グループと「強い」グループに分断されていきます。社会の分断が進むということは、人々の間で互いを尊重するという考え方が喪失されていくということでもあります。そのような社会で生きていくことは、正直私にはしんどいです。したがって、私は社会が分断されていくことに抵抗を感じます。もっと「強い」人と「弱い」人が深い交流をすることができれば、分断は防げると思います。
私はどうするべきか
私は現在、会社では「弱い」立場で生きています。そのことに対して、私は強い悲しみを覚えてきました。実際、周囲から「その年齢でそのクラスかよ」と飲み会で馬鹿にされて辛い思いをしたこともあります(注:自分が所属する会社では「クラス」というもので給料が決まる)。しかし、本書を読み、「弱い」立場にもそれ独特のちからがあると気付くことができました。
一方で、私が社会規範から自由になるために、自分が持つ固定観念を消化する必要もあります。これについては、自分がケアする側になれる環境を探し、そこで「弱い」立場の人をケアすること、深く知ることによって消化していきたいと思います。