初心者データサイエンティストの備忘録

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「ハンチバック」と「普通になりたいという気持ち」

はじめに

 芥川賞を受賞した「ハンチバック」を読みました。本作は、先天性ミオパチーという病気に罹患している作者、市川沙央さんによって書かれた本です。主人公も同じ病気に罹患しており、小説では(恐らく)市川さんの心象風景が描かれています。
 私が本作を手に取った理由は、市川さんが他人事ではないからです。社会で生きる上で何らかのハンディキャップを抱えているという点で、市川さんと私には共通点があります。そのハンディキャップをどのように小説に落とし込んでいるのかということに興味を持ち、本作を手に取りました。

社会への批判

 本作は、健常者優位な社会への批判で満ち溢れています。私はこの世の中を健常者優位と思ったことはありませんが、障害を持つ人から見たらそうなのだと思います。社会への批判を真正面から描くことで、結果的に健常者である読者は障害者と健常者という対立的な視点を持つことになります。その視点により、私たちにとって快適な社会は、障害者にとって全く快適ではないという当たり前の現実に私たちは気付かされます。

妊娠と中絶はしてみたい

 本作が芥川賞を受賞した後、作者の市川さんには批判がいくつも届いたそうです。そのうちの一つに本作の主人公がTwitterでつぶやいた『妊娠と中絶はしてみたい』という言葉に対する批判があります。『妊娠と中絶はしてみたい』という言葉に対して「気持ち悪い」とか「生命を軽視している」といった批判です。
 確かに、『妊娠と中絶はしてみたい』という言葉をその字義通りに受け取ると、ギョッとします。しかし、これは「普通の人になりたい」という気持ちの比喩だと私は思いました。ここでいう普通の人というのは、本作でいえば健常者であり、健常者から性の対象とされる人のことを指すと、私は思いました。「普通の人になりたい」という気持ちをセンセーショナルに表現したものが、『妊娠と中絶はしてみたい』という言葉だと私は解釈しています。
 このことをよく書き表していると感じた文章は下記です。

私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった。

私と本作の関係性

 本記事の「はじめに」で、私は社会で生きる上でのハンディキャップを抱えていると書きました。私自身は障害を持っていませんが、社会に対して生きづらさは常に感じています。私は幼い頃から、人と同じように振舞えないことにコンプレックスを抱いていました。そのコンプレックスは今でも抱えていますし、周囲と比べて劣等感を非常に感じながら生きています。その気持ちを一言で表すと「普通の人になりたい」なんです。 「普通の人」に強い憧れを持ちながら、それを一生実現できないだろうと思うやるせなさは、それを経験した人にしかわからないと思います。
 とはいえ、私の「普通の人になりたい」は周囲から植え付けられたものでもあると感じています。身体障害のような目に見えて「普通の人ではない」という状態ではありません。ある意味気持ち次第で「普通の人になれる」という意味では、私の方が気楽だと思います。

終わりに

 ここまで書いてきて、その人にとっての「普通の人」というのは、「その人にとって理想の人」と言い換えられるかもしれないと私は思いました。市川さんにとっての理想の人は背骨が曲がっていない人、私にとっては勉強ができて、所属するコミュニティでうまく振舞える人を「普通の人」と言っている感があります。そう考えると、自分のことを「普通ではない弱者」と捉える視点とは別の視点を持つことができるかもしれないと思いました。